障がいをもつご本人による講演

私は、43歳の時に進行性の目の病気である網膜色素変性症により視覚障がい者になり、勤めていた会社を退職して、鍼灸マッサージ師の資格を取るために3年間、国立神戸視力障害センター理療科で学び、2000年に資格を取得しました。その後60歳ごろから視力の低下が進み、文字を拡大する機器でも読むことができなくなりました。現在は音声を頼りに情報を入手し、防災士として避難時や避難所での支援方法など地域のさまざまな防災・減災活動にも取り組んでいます。また、同じ視覚に障がいがある人の支援をするだけでなく、他の障がいをもつ方との交流や勉強会なども開催し、ユニバーサルな社会を目指していきたいと考えています。

2009年視覚障がい者の当事者団体「眼の会」を設立する。2020年全国で初めて全盲で防災士の資格を取得するなど幅広く活動されている。


私は、2歳の時に結核菌が脊椎へ感染する脊柱カリウスで下半身の自由がきかなくなり、小学校の5年生のときに病状が悪化して、卒業まで一度も学校に行けませんでした。中学校でも小学校と同じく、体育や運動会は全て見学で修学旅行にも行けませんでした。両脚の機能回復を目的に兵庫県玉津福祉センター(現・県立総合リハビリテーションセンター)に入所後、車いすでの生活を送るようになりました。センターでの生活のなかで車いすスポーツの魅力にみせられてのめり込みました。パラリンピックでメダルを獲得して帰国すると、街には「祝パラリンピック優勝 帰郷歓迎」の看板が立ち、バイクのサイドカーに乗ってパレードしてもらったときは、日本代表の公式ジャケットが手で絞れるほど汗でびっしょりでした。

1972年の夏に旧西ドイツで開催されたパラリンピック・ハイデルベルク大会で、陸上スラロームを制して金メダルを獲得。またアーチェリーでは銅メダルを獲得。27歳の時に車いすバスケットボールを始め、後に皇后杯全日本女子選手権となる全国大会をチームメートと立ち上げ38歳まで競技を続ける。


私は、52 歳の時に仕事中の事故で転倒して頭を強く打うち、頚髄の5 番から6番を脱臼して、両足の麻痺と感覚を喪失しました。事故当初は胸から下を動かすことができなかったのですが、病院でのリハビリに励み、手すりなどを使うことでわずかながら立位を取ることが可能になりました。日常生活では、起立性低血圧で体を起こした体勢が長く続くと血圧が下がるため長時間の座位が困難でしたが、今では少しずつ座位の時間が延びてきました。
長年勤めた、障がい福祉施設での経験と、障がいをもつ当事者としての目線から感じることを活かして、障がいをもつ方が生きやすい、人にやさい社会になるように尽力していきたいと考えています。

障がい福祉サービス事業所・相談事業所では、長年にわたり施設長を務めて、入所されているご本人やご家族、職員からも人望が厚く、多くの方から惜しまれて退職する。


私は、19歳の時に高い所から落ち、腰の骨を折ったことで車いすユーザーになりました。屋外では車いすでの移動をしていますが、室内では家具や手すりをもつことで、不安定ですが車いすを使わずに歩くこともできます。車いすに乗って街に出てみると、1人ではできないこともありますが、社会って意外と優しいなと感じられることも多いです。社会には、元気な人も病気の人も赤ちゃんもお年寄りもいます。お互いが、お互いの環境を知り合うことだけで、それぞれの“気づき”があるはずです。お互いのことを思いやれる社会こそが、優しい社会を作ることの第一歩になるのではないでしょうか。

兵庫県の福祉のまちづくりアドバイザーとして活躍。大学の講義のゲストスピーカーとして、車いすユーザーの視点からバリアフリーやユニバーサルデザインに関する講演を行っている。

障がいをもつ方のくらしと家づくり 講演

私は、中学生の時に薬害サリドマイドの認定を受けました。しかし、私には四肢の障がいはなく、3歳のときに手術で切除した耳の奇形や、摂食時に涙が出るワニの涙症候群と、眼球の運動制限のデュアン症候群がありますが、日常の生活に困ることはありませんでした。認定を機に、高校に入学してから、手話サークルに入ったり、ボランティア活動をしたりするなかで、多くの学びを経験して、福祉を「業」として考えるようになりました。大学進学時には当時は数少なかった社会福祉学科で学び、卒業後は大手の住宅メーカーで建築を学びました。1991年に実家のある神戸で起業し、3年後に社会を震撼させた阪神淡路大震災で被災しました。そのなかで、県内に数多くできた仮設住宅で困難を抱えられていた方の数百件のお宅に手すりや段差解消なのでくらしを支え、その後優に10,000人を超える障がいをもつ方の家に出向き、4,000人以上の障がいをもつ方の住まいづくりに携わりました。